大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

名古屋地方裁判所 昭和62年(レ)75号 判決

主文

一  原判決を取り消す。

二  被控訴人は、控訴人から別紙物件目録記載の版画の引渡しを受けるのと引換えに、控訴人に対し、金四〇万円を支払え。

三  訴訟費用は、第一、二審とも被控訴人の負担とする。

四  この判決は、仮に執行することができる。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  控訴人

主文同旨

二  被控訴人

1  本件控訴を棄却する。

2  控訴費用は控訴人の負担とする。

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  控訴人は、被控訴人から、昭和六〇年五月中旬ころ、別紙物件目録記載の版画(以下「本件版画」という。)を、代金四〇万円で購入し(以下「本件売買契約」という。)、同月一七日、被控訴人に対し、右四〇万円を支払った。

2  控訴人が被控訴人から本件版画を買い受ける旨の意思表示をしたのは、被控訴人が控訴人に対して、本件版画はピカソのオリジナル版画であり、右下余白の署名がピカソの真筆であると申し向けたため、右版画がピカソのオリジナル版画ではなく、右署名がピカソの真筆ではないのに、控訴人は、本件版画がピカソのオリジナル版画であり、かつ右署名がピカソの真筆であると誤信したからである。

3  控訴人は被控訴人に対し、本件契約締結に際し、右2の動機を明示又は黙示に表示した。

4  よって、被控訴人の本件売買契約締結の意思表示は要素の錯誤により無効であるので、控訴人は被控訴人に対し、不当利得返還請求権に基づき、控訴人から本件版画の引渡しを受けるのと引換えに、四〇万円を支払うことを求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1の事実は認める。

2  同2のうち、本件売買契約締結の際、被控訴人が控訴人に対し、本件版画の右下余白の署名がピカソの真筆であると述べたことは認めるが、その余の事実は否認する。

3  同3の事実は否認する。

第三  証拠〈省略〉

理由

一  請求原因1の事実、並びに同2のうち本件売買契約締結の際、被控訴人が控訴人に対し、本件版画の右下余白の署名がピカソの真筆であると述べたことは当事者間に争いがない。

二  右争いのない事実に〈証拠〉を総合すれば、控訴人は、昭和五六年ころから、主として絵画、版画等の売買を業としていた会社であるところ、控訴人代表者谷口吉正は、昭和六〇年三月ころ、仕事で上京した際、東京都千代田区麹町にある被控訴人経営の画廊に立ち寄り、店内のショールームに展示中の三〇〇万円の売り値のついた本件版画をみたが、被控訴人は、控訴人に対し、本件版画は「パブロ・ピカソの道化師」という版画で右下余白のサインもピカソの真筆であると述べるとともに、値引をして四〇万円にするから買うように勧めたが、控訴人代表者は、その日は「考えておく」といって帰ったこと、その後同年五月ころ、控訴人代表者は、仕事で上京した際再び被控訴人の画廊を訪れたが、被控訴人から再び「本物だから買ってくれ」と勧められ、本件版画を買い受けることとし、本件版画及びアメリカ鑑定協会上席会員AL・ゴールデン博士名義の「ピカソの作になる『ハーレクイン・アシス』の本物であることを証明する。一九六〇年にバルセロナのラフィカ・アトリエにより一〇〇部限定版で印刷され、ピカソが署名したものである。」旨の記載のある保証書(甲第一号証。以下「本件保証書」という。)が被控訴人から控訴人方に送付され、控訴人は同月一七日代金四〇万円を被控訴人に銀行振込みの方法で送金したこと、その後昭和六〇年一二月ころ、控訴人は、本件版画を代金二〇〇万円で「ピカソの道化師」として顧客に売却したところ、右顧客から「知人の画商からピカソのサイン入りの版画は七〇〇ないし八〇〇万円が相場であって、二〇〇万円で買えるはずがないといわれたのでキャンセルしたい」といわれ、控訴人はこれに応じて売買契約を合意解除せざるを得なかったこと、そのころ、控訴人代表者は東京の同業者から、被控訴人方は偽物ばかり扱っている旨の噂を聞いたこと、控訴人代表者は被控訴人に対し、電話で本件版画が偽物ではないかと述べたところ、被控訴人は、これに対し「偽物だといわれてあんたどう思うか」というのみで控訴人代表者の質問に対し確たる返事をしなかったこと、控訴人は、その後控訴人訴訟代理人浅井弁護士に委任して昭和六一年六月一〇日付け書面で本件版画がピカソの作品でないことが判明したとして代金四〇万円の返還を求めたが、被控訴人がこれに応じなかったため、本訴を提起したこと、以上の事実が認められ、前掲被控訴人本人尋問の結果中右認定に牴触する部分は前掲控訴人代表者尋問の結果に照らし、措信しがたく、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。

〈証拠〉と弁論の全趣旨によれば、オリジナル版画とは、作家によって版に絵が描かれ、作家が自刻、自慴するか、あるいは作家の厳密な指定・管理のもとで掘り師や刷り師によって仕上げられた版画であって、版画が必要部数だけ刷られると、同じ版を使って作品が刷られることのないように作家は版を処分してしまうこと、オリジナル版画には作家が署名と限定番号を余白等に書き加える(但し、署名や限定番号をつけるようになったのは、一九四〇年代以降の比較的最近のことで、それ以前の作品には記入されていないものがほとんどである)のが通常であり、作家自筆のサインと限定番号はオリジナル版画であることを保障する版画の生命のようなものであること、版画には、オリジナル版画とは別にエスタンプと呼ばれる複製版画があり、エスタンプは油彩や水彩などの本画が既に存在しているものにつき、これを模刻して版画に刷ったものであること、エスタンプについても本画の作者自身の署名のあるものは高く評価されていることが認められ、また、〈証拠〉によれば、本件版画は約一〇号の大きさの版画であり、版画の右下余白には、ピカソと読めなくはない署名が、左下余白には、限定番号61/100の記載があることが認められ、右各認定に反する証拠はない。

右認定の各事実によれば、控訴人は、本件版画がピカソのオリジナル版画又はエスタンプであり右下余白の署名がピカソの真筆であると信じ、これを前提として本件売買契約を締結したものであり、本件売買契約締結の際少なくとも黙示に右の動機を表示していたものとみられること、本件版画がピカソのオリジナル版画であるか否か、あるいは本件版画にピカソの真筆の署名があるか否かは、本件版画の経済的価値の判定につききわめて重要であることが認められる。

三  〈証拠〉によれば、ピカソのサイン入りの版画は、本件売買契約当時においても、少なくとも一枚七、八〇〇万円くらいする高価なものであることが認められ、〈証拠〉に弁論の全趣旨を総合すると、控訴人訴訟代理人らが被控訴人が控訴人に交付した本件保証書の作成者とされるAL・ゴールデンに本件保証書の成立の真正を確認するため、本件保証書記載の住所に宛てて手紙を出したところ、受取人があて所に尋ねあたらないとして手紙が戻ってきたこと、アメリカ鑑定協会(American Appraisal Association)なる名称の協会も存在しない疑いが強いこと、被控訴人は本件版画と同一の「ハーレクイン・アシス」を合計三〇枚、一枚当り一〇万円位で購入したと述べていること、被控訴人は本件保証書の真否につき確認していないことが認められ、〈証拠〉と弁論の全趣旨によると、通称で「カタログレゾネ」と呼ばれているピカソの版画全作品の目録が登載されているとされている書物(甲第九号証)には、「ハーレクイン・アシス」又は「道化師」なる作品は登載されていないこと、がそれぞれ認められ、右認定の各事実を総合すれば、本件版画がピカソのオリジナル版画ではなく、かつ本件版画の右下余白の署名がピカソの真筆ではないものと認めるのが相当である。

もっとも、被控訴人は、「アトリエカサ グラフイカ刷版。ピカソによるオリジナル石版画。一〇〇部の限定で一〇〇部作成後原版を破棄。」等と記載された証明書(乙第一号証の一、二)を提出し、前掲被控訴人本人は、被控訴人が本件版画を仕入れた際の売主が信用のおける人物であったことと買受けの際右証明書の交付を受けたので、本件版画の署名がピカソの真筆であると思った旨の供述をするが、右乙第一号証の一、二が真正でありかつ内容が真実であることを裏づけるに足りる証拠はないので、これが真正かつ真実であるとはたやすく認めることはできず、被控訴人本人の右供述は、前記認定に供した各証拠に照らし措信しがたく、他に前記認定を覆すに足りる証拠はない。

そうすると本件売買契約は、要素の錯誤により無効であるものというべきである。

四  以上によると、控訴人の本訴請求は理由があるので、これを棄却した原判決は失当であって、民訴法三八六条により、原判決を取り消して本訴請求を認容することとし、訴訟費用の負担につき同法九六条、八九条を、仮執行の宣言につき同法一九六条一項をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 岡崎彰夫 裁判官 大谷吉史 裁判官 見米 正)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例